稲魂

稲刈りの季節ですね〜🎵

田舎では、あっちこっちでコンバインを
目にしますわぁ🎵😆アッハッハ

少し稲の話をしよう🎵

稲の成長に欠かせない三大要素は
窒素(N)・リン酸(P)・カリウム(K)と
いわれています

これらを外部からバランスよく
施すことが、稲の収穫量を上げる
うえで大切になりますよね

この三大要素の中で特に
注目したいのが『窒素』
私たちが生活する上で必要な空気には
酸素の他に窒素が含まれています

割合を見ると
窒素は約8割を占めているのです

もし、この空気中の窒素を植物に与えることができたらと思いますよね

天からの氣(パワー)と書いて
『天氣』と読みますが

なんと雷がこれを実現して
くれてるんです

雷放電により空気中の窒素は
酸素と結びつき、窒素酸化物となります

これが雨に溶けて降り注ぐと
稲の肥料となり成長を促進させる

そこまで多い供給量ではないものの
稲が成長する上で雷は非常に重要な存在なのです

雨に田圃と書いて『雷』と読みます

雷の⚡️光は天と地を結ぶもの

雷の多い時期に稲穂をつけます

なので
稲光と書きます
その光が稲の妻になると書いて
稲妻と書くんです

雷が多い時は多く稲穂をつけ
豊作だったことから
『雷さま』(らいさま)と
呼んでいました

この稲穂をつける時期に『稲玉』も穂につきます

だから昔の人は、『稲霊』『稲魂』と呼んでたのです

この稲霊を椿の木灰を混ぜたご飯の上に
蒔くと野生のオリゼが育ったのです

でも
現在は『稲こうじ病』と
病気にされてますけどねぇ!

和食がユネスコ無形文化遺産に登録されて久しいですが!

ほとんどの、日本人は和食の何を登録したのか理解してませんよね

日本は!
このような日本の古くから伝承された
四季の食文化を登録したのですよ

ダイヤモンド筑波in母小島

5時に目が覚めて、部屋はいつものように冷えていた❗️
また布団をかぶっていた❗️
ふと気がついたら6時をまわっていた。
そうだ、『母小島(はこじま)』『さかさ筑波』だ『日の出は6時30分』と思いだし布団から飛び出し熱いコーヒーを持ち車で向かう。
普段の行いが良いからほとんど信号に捕まらなく20分でついてしまった。
土曜日ということもあり駐車場は満車である。市の職員が交通整理をする程の人気なんだね。

母小島は遊水池で小さいので既にポイントは抑えられていた。

でも、まあまあの撮影はできたかな❗️

バレンタインの2月14日をはさんでダイヤモンド筑波が見られるのでカップルには人気とあったが若いカップルはいなかったなぁ。

ここ、母子島遊水地は昭和61年の小貝川水害の後に整備された遊水地。

池の周囲には桜が植えられ、春には桜、また、筑波山をバックに「逆さ筑波」や水面に映える朝日、紅に染まる夕霞など変化に富んだ写真が撮れる。
年に2回、筑波山山頂から太陽が昇る「ダイヤモンド筑波」を見ることができる。

では
少し歴史を辿ってみよう。
小貝川(こかいがわ)
今から約1,300年前は「子飼川」とよばれ、約1,000年前には「蚕飼川」とよばれるようになり、「蚕養川」とも書かれていたそうです。
また、「常陸国」(現在の茨城県)と「下総国」(現在の千葉県北部と茨城県南西部)との間(国境)を流れていたいたので「国境(こっかい)」がいつか「こかい」とよばれるようになったそうです。

現在の「小貝川」となったのは、流域に貝塚があることから「小貝がたくさん採れる川」ということでついた名前であると言われていますが
せも太郎は、栃木県小貝町が源流なので小貝川と思っていました😆

小貝川は「毛野川」「絹川」と書かれた鬼怒川(きぬがわ)とともに、その流域は将門の活躍した舞台と重なっています。
この両河川は、筑波山西側をほぼ平行に南北に流れ、古代から氾濫を繰り返し、その河道が定まらない時代が長く続きました。
将門の時代になってようやく開拓が進み、それとともに大穀倉地帯となる素地が築かれてきました。

 小貝川は、流域の86%が平野であり、河川の勾配が緩いため、洪水の継続時間が長く、氾濫時の出水が引きにくい、利根川本川からの逆流の影響を広く受けてしまうという特徴を有しています。
最も利根川本川の影響を受けたのが昭和56年の洪水であり、小貝川単独での出水は小さかったものの、利根川本川からの逆流により龍ケ崎市高須地先において堤防が破堤し、浸水面積3,396ha、浸水家屋5,847戸の甚大な被害を受けました。

また、河川勾配の緩いことが最も影響したのが、昭和61年8月洪水です。台風10号による集中豪雨で24時間雨量300mmという記録的な集中豪雨に見舞われた小貝川が破堤に至ったのは、台風一過で快晴という天気の下でした。雨が上がった安堵感につかっている人々の目の前で、小貝川の水位は留まる気配を見せずに上昇し、ついには明野町赤浜(現在の筑西市赤浜)地先で溢水し、氾濫水が流域を襲いました。
無堤地区からも濁流が流れ込み、下館市(現在の筑西市)の約1/4が浸水しました。さらに下流の石下町(現在の常総市)において漏水から堤防が決壊するに至り、被害は4,300ha、浸水家屋4,500戸に及びました。

この災害を契機に、被害の大きかった母子島(はこじま)地区を遊水地に造成するとともに、その地区内に点在していた5集落を集団移転させ、遊水地内に新しい町をつくるという全国でも例のない改修事業を行いました。

まだ記憶に新しい2015年9月の関東・東北豪雨でも小貝川沿は氾濫しました。

人間は自然と共生しなければならないんだなぁ。

紀元節はこの国の始まり

戦後の歴史を学んだ我々は
1948年まで、
建国記念の日は「紀元節」と呼ばれていたことを知っておる人は少ないでしょう。

2月11日とは、

初代・神武天皇が即位した日であり「紀元節」はそのことを
お祝いする日だったのです。

しかし、戦争が終わってから、
この紀元節は問題視され

「国が紀元節を祝日にしていることは神武天皇の存在を認めることと同じ。紀元節を認めることで日本人の団結力を高めてしまうのではないか?」
こうして、1948年GHQ占領軍によって廃止され、紀元節(現在の建国記念の日)はただの平日にされてしまったのです…

しかし、当時の日本国民は、
紀元節の廃止を素直に受け入れることができませんでした。

「日本建国の歴史そのものが失われてしまう…」

国民の怒りと強い反発から、
代わりとなる祝日を制定する動きが
高まったのです。

(昭和23年(1948年)当時の世論調査では日本国民の81%が建国の記念日を望んでいました。)

自由民主党の衆議院議員らによって「建国記念日」制定に関する法案が提出されました。

しかし、日本社会党が「保守政党の反動的行為である」として反対します。
その後、実に7回…「建国記念日」の設置を定める法案は
提出と廃案を繰り返しやっとの思いで可決されました。
そうしてできたのが、
「建国記念の日」なのです。
しかし、そうした当時の努力も虚しく、今の日本人は、
自国の建国の歴史を学ばず、祖先が紡いできた伝統を忘れかけ建国記念の日がいつかすら答えられない状態になってしまっているのです

日本人が何世代にもわたり伝承してきた「日本神話」と「建国の歴史」を抹殺した

初代・神武天皇による建国の物語「神武東征」についても教科書から排除された。

「八紘一宇」とは神武天皇が即位されたときの御言葉である。
「日本全体を1つの家とする」という意味でありそのような“平和への願い“が込められた…日本の建国の精神であり歴代天皇に連綿と継承され続け「日本人は皆“家族“であるから日本人同士で争う事はやめてひとつの家族のように仲良くしよう」

現在も天皇陛下が体現なさっている「和の精神性」でもあった・・・・
しかしこれが戦時中に「日本が世界を征服するという意思を示したもの」と180度曲解され
2600年以上も伝承をつないできた「日本の歴史」が否定され、“闇“えと葬られたのだ。

日本の歴史教科書はすべてGHQ産の教科書に置き換えられた…

実は占領期に実施された「公職追放」という政策によって20万人が職を失った。
その空いたポストに戦前の犯罪者や「共産主義者」が大量に流れ込んでしまったのだ。
その結果「羽仁五郎」のような共産主義者や中国共産党・ソ連コミンテルンから潤沢な活動資金を受け反日活動を練り広げる左翼思想家が増殖。
アメリカによる占領が終わり日本が独立を果たした後もこれらの共産主義者が「日本教職員組合」(いわゆる日教組)「日本学術会議」の主要メンバーとして日本の教育界を牛耳り本格的に「反日教育」を拡大させていった不幸なことにその反日教育の影響を多大に受けてしまったのが天皇は「民衆を支配してきた悪の存在」であり、天皇や皇室を貶めることを正義とされたという。よりも「天皇打倒し教育を使って共産主義革命を行うこと」こそが彼らの目的であったそんな伝統の長い日本の歴史は非常に都合が悪かった“歴代天皇の系譜が記載された「古事記」や「日本書紀」は当時の権力者が都合よく創作創作した物語に過ぎないだから初代・神武天皇もそもそも実在しなかった「架空の人物」であり、研究する対象ではない“… .と
東京大学名誉教授・江上波夫
東京大学名誉教授・井上光貞
大阪市立大学名誉教授・直樹幸次郎
京都大学名誉教授・上田正明
など、古代史研究の中心的役割を果たした長たる戦後の学者ほぼ全員が神武天皇の存在を否定し一方的に「実在するわけがない」と決めつけた…
例えばよく述べられる理由として
「日本書紀」で神武天皇は127歳まで生きている。医療の発達してない当時そんなに長生きができるわけがない。だから、神武天皇は存在しなかった例えばよく述べられている理由として冷静に考えてみれば100歳以上の年齢だからといって天皇が“実在していなかった“と言う理由には全くならない神武天皇の否定論者は、ほぼ全員この論理を使うな実は当時の日本では、春と秋で年が変わる「180日間/1年」で年齢が計算されていた可能性が高くその計算にはてあ見れば「111歳=実際は55〜6歳」となるため特に問題なく自然な寿命になる「日本書紀」や「古事記」は創作であるから神武天皇も実在しなかった…
と言う明確な根拠もなくただ思想的な理由で「古代天皇の存在」を歴史上から抹殺させた…
実際に戦後の歴史学会で学者の立場から見てきた考古学者の森浩一氏は著書でこう残している「戦後の歴史学会には(建国をなし遂げた)神武天皇の統制には一切触れないという暗黙の了解があった。
ほんのわずかでも触れると研究者があらわると「科学的でない」と非難の雨が集中した。

なので現在学校で使われている歴史系教科書では「魏志倭人伝」の内容を元にして古代中国との関係から語られ元天皇の血筋とは関係のない「女王・卑弥呼と邪馬台国」がまるで日本の起源かのように記載されています。
神武天皇による建国の歴史については一言も触れられていません…逆に今の歴史教科書に載っている卑弥呼や邪馬台国については
残念ながら戦後の歴史学者によって建国の歴史は一方的に指定され中国の歴史上こそ真実が描かれていると信じられてきました。ほとんどの学者が「邪馬台国があった」という前提で論争したり古代史を語っていますが果たしてそもそも存在していたのでしょうか?なぜなら普通はありえないような「不可解な事実」がたくさん確認できるからです。
「例えば、日本国内のどこにも卑弥呼の「伝承」や「神社」が残っておらずその痕跡が1つも残されていません。
日本では聖徳太子や菅原道真、平将門など国を直接治めていたわけでない偉人でさえも神魂の祈りを捧げるため神社が作られてきた伝統があります。皮肉ほどの権力者で「国」を治める「首長」的存在であるならば地元の人々が崇めたり祀っていた形跡があるはず。
神社もそれらしい存在の痕跡も見当たらない

1945年(昭和20年)
あれから77年たっても戦後と言っている日本国民

1868年(慶応4年・明治元年)から153年まだ明治維新も終わってないのでしょうな

神話での出雲大社

神話で読み解く日本の起源 出雲大社

平安時代の数え歌に、「雲太、和二、京三」背の高い建物(高層建築物)の順番を謳った数え歌です。
雲太、和二、京三とは、当時の高層建築物BEST3のことを言っています。

1位  →出雲大社(出雲太郎)

2位  →東大寺(大和二郎:東大寺は大和の国(現奈良県)にありました)

3位  →平安京大極殿 (京三郎)


高天原というのは日本を作ったとされるイザナミやイザナギ伊勢神宮に祀られるアマテラス等の神々が住まう天上の世界です。
高天原は神話の中では出雲に対し出雲に国譲りを迫った勢力して描かれています。一体その正体とは何なのか…
出雲の神殿の存在を裏付ける証拠が発見されたとはいえ天上の世界が存在するなどこの科学が発展した現代の常識からすれば当然あり得るはずはありません。では「高天原」というフィクションとしか考えられない存在の正体とは何なのでしょうか?
神話に関する研究は一向にこの謎を解明することができず長い間解明されずにいましたが
西洋美術研究の国際的権威として世界の強いわや宗教に接する田中教授は、これまでも誰も見抜けなかったある観点から「国譲り神話」をひもとき「高天原」の場所をついに特定したのです。
神社に秘められた「国譲り」の
“ある観点“とは一体何のことなのか?
高天原とはどこにあったのか?

神話を解明するには、“神社“にもっと注目しなければなりません。国譲り神話で出雲を収めていたのがオオクニヌシ・
彼を祀っていたのは出雲大社です。
そして、高天原勢力の代表としてオオクニヌシに国譲りの交渉を迫ったのはタケミカズチの神(建御雷神)です。
彼を祀っているのが茨城県にある鹿島神宮」神話の物語にさいしてまず、この2つの神社の形をじっくりと観察しなければなりません

そうすると“神話の暗号“とも思える面白い共通点が見えてくるのです。
「出雲大社」と「鹿島神宮」
二つの神話の神殿を見ると一体何がわかるのか?

この画像は「出雲大社」の神殿の設計図です。出雲の神殿には、奇妙な設計が施されています。
神様の神座が「横を向いている」のです。普通私たちが神社で参拝する際扉から入ってそのまままっすぐ対面して新じゃがむいてありますしかし、出雲大社だけは横を向いているため柱をくるっとまわって横向きに参拝しなければいけないのですこのような奇妙な設計になっているため、これまでは都市伝説として「国譲りで土地を奪われたオオクニヌシが祟らないように特別な設計にされた。」
「人々に参拝されないように横向きにされた。」など様々な憶測がささやかれてきました。
ですが注目すべきと指摘するのはもう一つの「鹿島神宮」の神殿です。

なんと「鹿島神宮」の本田も出雲大社と同じく本殿の神座が参道に対して横向きに立っているのです。神座の向きも神座の場所も全くの一致。「新座が横向き」と言う奇妙な設計になっているのは一般の神田ではほとんど見当たらず「鹿島神宮と」と「出雲大社」だけに見られる不思議な共通点なのです。
一体これらの共通の設計は何を表すのでしょうか?ここでもう一度だけ「国譲りの神話」を思い出しましょう。
=ー× =ー=ー× =ー=ー× =
オオクニヌシは、出雲を高天原の神々に譲り渡す条件として、以下のお願いをしました。
「高天原勢」に「私の住むところ、高天原に住む神達と同じように、頑丈な基礎と太い柱で建て、高天原に届くほど高く、千木をかざして立ててもらうならば、私は出雲の地の果てに隠れておりましょう。」
高天原勢のタケミカズチの神は、これを了承し、こうして出雲大社が作られました。
=ー× =ー=ー× =ー=ー× =ー
つまり、出雲大社は「高天原」の神殿に見せて建てられたのです。
タケミカズチが祀られる鹿島神宮があった場所が「高天原」であると考えれば…高天原に住んでいたタケミカズチの神が高天原式(鹿島神宮式)の建築方法で出雲大社を作っただから、鹿島神宮と出雲大社の神殿の形式は全く同じであり「「神座の向き」も共通している。このように納得感を持って説明することができます。もちろんそれだけではありません。鹿島神宮のすぐ近く茨城県鹿嶋市には「高天原」という地名が残っているのです。

こうして神社の形と「国譲り神話」とを結びつけることで「鹿島神宮の周辺こそが高天原である」

つまり高天原は実は“地上“のことであり、それは鹿島神宮を中心とした「関東」にあたる場所だったというのです。

そして面白いことに高天原を鹿島神宮を中心とした「関東地域」だと考えることで実にあらゆるところがうまく説明できるようになり神話と神社や遺跡との関係性それらの辻褄が合うようになります。

例えば神話の中でも最も神秘的なストーリーとして描かれる「天孫降臨」高天原の神々が地上(九州)に舞い降りてくる…
と言う常識では理解できない“現実離れ“した話であるためただのフィクションとしてされてきましたが高天原が関東であることに着目すれば天孫降臨とは「関東(高天原)から人々が船で海を渡って九州に移動した」という、現実の歴史的出来事として解釈できるのです。事実、天孫降臨した場所である「鹿児島」は「鹿島の子供」として地名に歴史が残されていますし今でも旅立ちや門出を意味する「鹿島立ち」言葉があったり、武士が遠方に旅立つ時、鹿島神宮に参拝しわざわざ鹿島から出発して安全を祈願する風習も残っています。

また、三代神宮のうちニつがなぜ関東にあったのか?…という不可解な謎も解けるようになります。平安時代、天皇家に深く関係する神殿として最高の格式を表す「神宮」の使用を許されているのは三つだけとされていました。
鹿島神宮(茨城県)香取神宮(千葉県)伊勢神宮(三重県) 三つです。
一体なぜ、奈良・京都が中心だった時代に関東のニつの神宮が天皇と深い関係にあるとされてあるとされたのか…?

天皇の祖先である(高天原」の神々が“関東“が起源であると考えれば合点が行きます。

このように「高天原は関東にあった」と考えることで古代における多くの謎の辻褄が合い、古代の史実の解明がつながってきます。
他にも、なぜ神話に関東や東北地域の記述がほとんど出てこないのか?
なぜイザナギ・イザナミが産んだのは西日本の島ばかりだったのか?
東日本にも島はたくさんあるのに古事記では「本州」としてまとめられてしまったのはどうしてなのか?
なぜ神様が天界である「高天原」において“稲作“や“機織り“などの労働をしていたのか?
海外の神話と比較してなぜか日本神話の神様は人間と同じような行動をしています。一体何故でしょうか?
そもそも、神話で語られる「神」とは一体、何を指しているのか?
今の天皇や神道とどう関係しているのか?などなどこれまで不可解とされた日本神話の謎についてもすっきりと納得感を持って理解できるようになるのです。
「高天原」や「出雲の国譲り」などこれまでは「創造のおとぎ話」や「フィクション」だと考えられてきた日本神話の物語ですが、ここ数十年の考古学的な発見で明らかになった遺跡や史跡また実際に全国で残っている「神社仏閣」をじっくり観察していくことで、不思議にも神話の物語と辻褄が合う「点」と「点」のつながりが見えてきます。今も各地に残る「神話の記憶」をたどり神話のダイナミックな物語に「解釈」を吹き込むということで日本神話が本当に実在した「日本の起源史」として見事に浮かび上がってきます。
そして高天原の神々から初代・神武天皇まで歴史がわかるようになり通説でいわれるよりもはるかに昔からの何千年年万年と「天皇の系譜」が脈々と続いてきた、まさに「奇跡」ともいえる日本の歴史の凄まじさを実感することができます。

しかしこのような凄まじい自国の歴史を私たち国民はほとんど知らされていません。私たちが今まで習ってきた古代の歴史といえば「縄文から弥生時代にかけて原始的な人間が活動していた」「卑弥呼が中国の王に認められ、日本初の女王として邪馬台国を統治した」神話や天皇の系譜にはほとんど触れられない話が続きその後突然「ヤマト政権」の時代に突入します。
肝心な自分たちの国の「出発点」を曖昧でぼやかされてきた形で教わってきたのです。一体なぜ、日本の成り立ちである「神話」を私たちは全く教われなくなったのか?
日本を占領したGHQ占領軍は日本人と心は(天皇)とのつながりを完全に断ち切るため学校教育で神話を学ぶことを禁じました。
天照大御神や神武天皇といった建国神話を教える国史の教科書は全て焼き払われ「天皇や神話に関する部分を墨汁で塗りつぶして読めないように」と子供たちは「角塗り教科書」を使用することになりました。自分たちの国の教科書を自分たちの国の成り立ちを全て黒く塗りつぶされ、神話を学ぶ機会を奪われたのです。
そして戦後75年経った今でも学校で「神話」について一切教わる教わる事はなく戦後の日本人は自国が2000年以上続く世界最古の皇統の国であるということも…
自国が天皇を中心として国家安寧を保ってきたということも…全て忘れてしまいまるで脳の1部を切りとられてしまったかのようにすっぽりと神話の記憶が抜け落ちてしまいました。
21世紀を代表する歴史学者アーノルド・ J ・トインビーは著書の中でこのような言葉を言い残しています。12、13歳位までに民族の神話を学が学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる。

これは今の日本の状況を入れているのかもしれません。
日本は現存する「世界最古の国」であり長い伝統を持っているだけでなく「神話」と「歴史」が密接に結びつく非常に神秘的でユニークな国です。
しかし多くの国民が神話の記憶を失いつつある今、このまま放っておけば何万年何世代にもわたり脈々と繋がれてきた、“日本の歴史の糸“が近い将来途切れてしまうかもしれません。

これほど珍しい歴史を持っているにもかかわらず日本人自身がその価値重要性に気付かない状態になってしまっているのは、非常にもったいないことではないでしょうか?
日本中に眠っているこの美しい歴史の真実を日本人に伝えていかなければならない神話の物語の背景には何が隠されていて何を伝えようとしていたのか?そういった先人たちの記憶を蘇らせることで古代から続く日本人の精神を取り戻してほしい。

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