紀元節はこの国の始まり

戦後の歴史を学んだ我々は
1948年まで、
建国記念の日は「紀元節」と呼ばれていたことを知っておる人は少ないでしょう。

2月11日とは、

初代・神武天皇が即位した日であり「紀元節」はそのことを
お祝いする日だったのです。

しかし、戦争が終わってから、
この紀元節は問題視され

「国が紀元節を祝日にしていることは神武天皇の存在を認めることと同じ。紀元節を認めることで日本人の団結力を高めてしまうのではないか?」
こうして、1948年GHQ占領軍によって廃止され、紀元節(現在の建国記念の日)はただの平日にされてしまったのです…

しかし、当時の日本国民は、
紀元節の廃止を素直に受け入れることができませんでした。

「日本建国の歴史そのものが失われてしまう…」

国民の怒りと強い反発から、
代わりとなる祝日を制定する動きが
高まったのです。

(昭和23年(1948年)当時の世論調査では日本国民の81%が建国の記念日を望んでいました。)

自由民主党の衆議院議員らによって「建国記念日」制定に関する法案が提出されました。

しかし、日本社会党が「保守政党の反動的行為である」として反対します。
その後、実に7回…「建国記念日」の設置を定める法案は
提出と廃案を繰り返しやっとの思いで可決されました。
そうしてできたのが、
「建国記念の日」なのです。
しかし、そうした当時の努力も虚しく、今の日本人は、
自国の建国の歴史を学ばず、祖先が紡いできた伝統を忘れかけ建国記念の日がいつかすら答えられない状態になってしまっているのです

日本人が何世代にもわたり伝承してきた「日本神話」と「建国の歴史」を抹殺した

初代・神武天皇による建国の物語「神武東征」についても教科書から排除された。

「八紘一宇」とは神武天皇が即位されたときの御言葉である。
「日本全体を1つの家とする」という意味でありそのような“平和への願い“が込められた…日本の建国の精神であり歴代天皇に連綿と継承され続け「日本人は皆“家族“であるから日本人同士で争う事はやめてひとつの家族のように仲良くしよう」

現在も天皇陛下が体現なさっている「和の精神性」でもあった・・・・
しかしこれが戦時中に「日本が世界を征服するという意思を示したもの」と180度曲解され
2600年以上も伝承をつないできた「日本の歴史」が否定され、“闇“えと葬られたのだ。

日本の歴史教科書はすべてGHQ産の教科書に置き換えられた…

実は占領期に実施された「公職追放」という政策によって20万人が職を失った。
その空いたポストに戦前の犯罪者や「共産主義者」が大量に流れ込んでしまったのだ。
その結果「羽仁五郎」のような共産主義者や中国共産党・ソ連コミンテルンから潤沢な活動資金を受け反日活動を練り広げる左翼思想家が増殖。
アメリカによる占領が終わり日本が独立を果たした後もこれらの共産主義者が「日本教職員組合」(いわゆる日教組)「日本学術会議」の主要メンバーとして日本の教育界を牛耳り本格的に「反日教育」を拡大させていった不幸なことにその反日教育の影響を多大に受けてしまったのが天皇は「民衆を支配してきた悪の存在」であり、天皇や皇室を貶めることを正義とされたという。よりも「天皇打倒し教育を使って共産主義革命を行うこと」こそが彼らの目的であったそんな伝統の長い日本の歴史は非常に都合が悪かった“歴代天皇の系譜が記載された「古事記」や「日本書紀」は当時の権力者が都合よく創作創作した物語に過ぎないだから初代・神武天皇もそもそも実在しなかった「架空の人物」であり、研究する対象ではない“… .と
東京大学名誉教授・江上波夫
東京大学名誉教授・井上光貞
大阪市立大学名誉教授・直樹幸次郎
京都大学名誉教授・上田正明
など、古代史研究の中心的役割を果たした長たる戦後の学者ほぼ全員が神武天皇の存在を否定し一方的に「実在するわけがない」と決めつけた…
例えばよく述べられる理由として
「日本書紀」で神武天皇は127歳まで生きている。医療の発達してない当時そんなに長生きができるわけがない。だから、神武天皇は存在しなかった例えばよく述べられている理由として冷静に考えてみれば100歳以上の年齢だからといって天皇が“実在していなかった“と言う理由には全くならない神武天皇の否定論者は、ほぼ全員この論理を使うな実は当時の日本では、春と秋で年が変わる「180日間/1年」で年齢が計算されていた可能性が高くその計算にはてあ見れば「111歳=実際は55〜6歳」となるため特に問題なく自然な寿命になる「日本書紀」や「古事記」は創作であるから神武天皇も実在しなかった…
と言う明確な根拠もなくただ思想的な理由で「古代天皇の存在」を歴史上から抹殺させた…
実際に戦後の歴史学会で学者の立場から見てきた考古学者の森浩一氏は著書でこう残している「戦後の歴史学会には(建国をなし遂げた)神武天皇の統制には一切触れないという暗黙の了解があった。
ほんのわずかでも触れると研究者があらわると「科学的でない」と非難の雨が集中した。

なので現在学校で使われている歴史系教科書では「魏志倭人伝」の内容を元にして古代中国との関係から語られ元天皇の血筋とは関係のない「女王・卑弥呼と邪馬台国」がまるで日本の起源かのように記載されています。
神武天皇による建国の歴史については一言も触れられていません…逆に今の歴史教科書に載っている卑弥呼や邪馬台国については
残念ながら戦後の歴史学者によって建国の歴史は一方的に指定され中国の歴史上こそ真実が描かれていると信じられてきました。ほとんどの学者が「邪馬台国があった」という前提で論争したり古代史を語っていますが果たしてそもそも存在していたのでしょうか?なぜなら普通はありえないような「不可解な事実」がたくさん確認できるからです。
「例えば、日本国内のどこにも卑弥呼の「伝承」や「神社」が残っておらずその痕跡が1つも残されていません。
日本では聖徳太子や菅原道真、平将門など国を直接治めていたわけでない偉人でさえも神魂の祈りを捧げるため神社が作られてきた伝統があります。皮肉ほどの権力者で「国」を治める「首長」的存在であるならば地元の人々が崇めたり祀っていた形跡があるはず。
神社もそれらしい存在の痕跡も見当たらない

1945年(昭和20年)
あれから77年たっても戦後と言っている日本国民

1868年(慶応4年・明治元年)から153年まだ明治維新も終わってないのでしょうな

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