ダイヤモンド筑波in母小島

5時に目が覚めて、部屋はいつものように冷えていた❗️
また布団をかぶっていた❗️
ふと気がついたら6時をまわっていた。
そうだ、『母小島(はこじま)』『さかさ筑波』だ『日の出は6時30分』と思いだし布団から飛び出し熱いコーヒーを持ち車で向かう。
普段の行いが良いからほとんど信号に捕まらなく20分でついてしまった。
土曜日ということもあり駐車場は満車である。市の職員が交通整理をする程の人気なんだね。

母小島は遊水池で小さいので既にポイントは抑えられていた。

でも、まあまあの撮影はできたかな❗️

バレンタインの2月14日をはさんでダイヤモンド筑波が見られるのでカップルには人気とあったが若いカップルはいなかったなぁ。

ここ、母子島遊水地は昭和61年の小貝川水害の後に整備された遊水地。

池の周囲には桜が植えられ、春には桜、また、筑波山をバックに「逆さ筑波」や水面に映える朝日、紅に染まる夕霞など変化に富んだ写真が撮れる。
年に2回、筑波山山頂から太陽が昇る「ダイヤモンド筑波」を見ることができる。

では
少し歴史を辿ってみよう。
小貝川(こかいがわ)
今から約1,300年前は「子飼川」とよばれ、約1,000年前には「蚕飼川」とよばれるようになり、「蚕養川」とも書かれていたそうです。
また、「常陸国」(現在の茨城県)と「下総国」(現在の千葉県北部と茨城県南西部)との間(国境)を流れていたいたので「国境(こっかい)」がいつか「こかい」とよばれるようになったそうです。

現在の「小貝川」となったのは、流域に貝塚があることから「小貝がたくさん採れる川」ということでついた名前であると言われていますが
せも太郎は、栃木県小貝町が源流なので小貝川と思っていました😆

小貝川は「毛野川」「絹川」と書かれた鬼怒川(きぬがわ)とともに、その流域は将門の活躍した舞台と重なっています。
この両河川は、筑波山西側をほぼ平行に南北に流れ、古代から氾濫を繰り返し、その河道が定まらない時代が長く続きました。
将門の時代になってようやく開拓が進み、それとともに大穀倉地帯となる素地が築かれてきました。

 小貝川は、流域の86%が平野であり、河川の勾配が緩いため、洪水の継続時間が長く、氾濫時の出水が引きにくい、利根川本川からの逆流の影響を広く受けてしまうという特徴を有しています。
最も利根川本川の影響を受けたのが昭和56年の洪水であり、小貝川単独での出水は小さかったものの、利根川本川からの逆流により龍ケ崎市高須地先において堤防が破堤し、浸水面積3,396ha、浸水家屋5,847戸の甚大な被害を受けました。

また、河川勾配の緩いことが最も影響したのが、昭和61年8月洪水です。台風10号による集中豪雨で24時間雨量300mmという記録的な集中豪雨に見舞われた小貝川が破堤に至ったのは、台風一過で快晴という天気の下でした。雨が上がった安堵感につかっている人々の目の前で、小貝川の水位は留まる気配を見せずに上昇し、ついには明野町赤浜(現在の筑西市赤浜)地先で溢水し、氾濫水が流域を襲いました。
無堤地区からも濁流が流れ込み、下館市(現在の筑西市)の約1/4が浸水しました。さらに下流の石下町(現在の常総市)において漏水から堤防が決壊するに至り、被害は4,300ha、浸水家屋4,500戸に及びました。

この災害を契機に、被害の大きかった母子島(はこじま)地区を遊水地に造成するとともに、その地区内に点在していた5集落を集団移転させ、遊水地内に新しい町をつくるという全国でも例のない改修事業を行いました。

まだ記憶に新しい2015年9月の関東・東北豪雨でも小貝川沿は氾濫しました。

人間は自然と共生しなければならないんだなぁ。

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